大人になって失ったもの

考察
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大人になって失ったもの

子供の頃の純真な心をなくしてしまったのはいつの事だろうか。
大人になるにつれて思ったことをすぐに口にしていいかどうか、みんな判断がつくようになったのだろう、
「華ちゃんって ”チップとデール” のアホな方に似てるよね!」
と、友人から言われなくなって久しい。
どう頑張っても好意的な意味に捉えることができない、アホという単語を使用して私を表現されなくなったのは喜ばしいことではあるけれど、同時にみんな本心を口にしなくなったんだなあ、と寂しくもあったりする。

指輪キャンディーで満たされた純真な心

大人になって得たものはたくさんあるけれど、同じくらい、子供の頃には持っていた大切なものも多くなくしたように思う。
思えば幼い頃はほんの小さなことでとてつもない充足感というか、満足感を得られる汚れのない心を持っていた。
確か数十円だったと思うが、近所のガチャガチャで買ってもらった指輪の形をしたキャンディなんて、当時の私からしたら本物のダイヤモンドの指輪より輝いて見えた。
※今でも『ジュエルキャンディ』という商品名で販売されているらしい

なんせ舐めたら甘いんだから。
ただ指の上に乗っけているだけの石っころより、たったの数十円しかしない上に美味しく、見た目は本物の宝石と大差ないキャンディの方がずっと魅力的だった。
私だけでなく、同年代の子供たちの間で大流行していたのできっとみんなも同じ気持ちだったのでは?

何より嬉しかったのが、このキャンディを買ってもらった子はみんなの羨望のとなり、舐め尽くしてしまうまでの間はちょっとした特権階級を手に入れることができたところだ。

「華ちゃーん、泥団子作ろー」
「ダメー、宝石が砂まみれになっちゃうからー」
「華ちゃーん、かくれんぼの鬼やってー」
「ダメー、手で目を覆ったら顔がべたべたになっちゃうからー」

本当は遊びに参加したい気持ちもあるのだが、”こんな厄介なものが指にあるから、しばらく平民の皆様とはお付き合いできないのよ、ごめんさいね” と断ることが、妙に快感だったのを覚えている。
こう考えてみると、大人がダイヤモンドを身につける理由も子供が宝石キャンディを喜んで舐めるのも、根本は同じ心理なのかもね。

私の心を満たしたコレクション

簡単に得られる充足感といえば、忘れることのできないダンゴムシ集め

触るとクルッと陽気に丸まる小さな『王蟲(オウム)by 風の谷のナウシカ』にしか見えなかった私は、綺麗に洗った空き瓶を母にもらい、嬉々として近所の石をめくっては下を覗き込み
「ウフフ・・・ほら、怖くない」
とか言いながら、次々とダンゴムシを捕まえては瓶に詰めていった。

瓶がダンゴムシでみっちみちになる事に謎の充足感を覚えていた私は、ベッドの枕元に置いて、毎晩うごめくダンゴムシたちを眺めながら眠りについたものだ。

これは大人が通帳の数字が増えていくことを眺めるときに感じる、達成感というか満足感に近いものだったように思う。
対象がなんであれ、自分が働いて得た成果を眺めることは、人間にとっては不変の真理なのでは。
そう思うとダンゴムシで心が満たされていた幼少期はなんと平和で幸せであったことか。

当然のことながら、今ではもう宝石キャンディにもみっちみちにダンゴムシが詰まった瓶にも、私の心を満たすことはできない。
やはり株で大儲けとか宝くじで大当たりとか、大人のドロドロを感じさせざるを得ないこうした単語でないと私の心はワクワクしてこない。

なんとも汚れきってしまったものだなあ・・・

悲しくなり、せめてブランコにでも乗れば幼少期のピュアな心を少しでも思い出せるかもと思い立った私は、夜の誰もいない公園にボクちゃんと立ち寄ってみた。

失ったのは心だけでなく体もだった

ゆっくりと腰をブランコに下ろし、その思いの外の低さにヒャーッとか言いながらも少し足で揺らしてみる。
懐かしいこの感覚。
心が洗われるようだった。

そういえば昔は誰が一番高くこげるか競争してたなー、なんて思い出がよみがえり、自然と私の漕ぐスピードも上がる。
宝石キャンディを舐めながら鬼ごっこをしたがために、キャンディが虫まみれになり泣いていたあの子は元気かしら。
自分の祈りで天候を自由に操ることができると豪語していたあの子は、今頃何をしているのだろうか。
ピュアだった頃に思いを馳せながら、爽やかに通り抜ける夜風を全身に感じブランコをこいでいたら・・・


めっちゃ酔った。


急に押し寄せてきた吐き気に耐えられずブランコを止めようとしたが、困った事にブランコの止め方が思い出せない。

「助けてー!吐くー!」

奇声を上げるおばさんに気づいたボクちゃんに止めて下ろしてもらったはいいが、長時間揺られ続けた年老いた私の体は平衡感覚が全くなくなり、地上に両足をつけて真っ直ぐ立つことができなくなっていた。

ブランコの片隅でえずきながら土下座ポーズをとり、動けなくなった私。
なんてことだ・・・ブランコはおろか飛んだりはねたり、走ることもほぼなくなっていた私は、ブランコごときの振動にも耐えられない体になってしまっていたのだ。
心だけでなく、肉体的にも子供の頃から大きなものを失っている事に気がつかされた瞬間だった。

どんなに惜しんでも幼少期は取り戻せないのだ。
今後はおとなしく諦めて、焼酎飲んでスルメでもかじりながら近所の子供たちが元気に走り回るのを眺めることにしようと思う。

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